狂言は能同様、奈良時代に中国大陸から渡来した唐散楽を起源としています。滑稽な物まねや曲芸・手品・幻術など雑多の芸を見せる雑劇ですが、やがて猿楽(後の能と狂言)が生まれ、それぞれの方向で成長していきました。
能と狂言は、別の役者集団でありつつ、同じ猿楽の一座で演じられていましたし、二つは別の演劇スタイルでありつつ、切っても切れない関係があります。
狂言は「ヲカシ」と呼ばれ、「笑」とか「咲」の字が当てられます。笑いを見せる劇ということなのでしょう。
また「間狂言」「間の者」「アイ」とも呼ばれます。
一日の演能プログラムが、「能・狂言・能・狂言・能」というように、能の間に狂言が置かれているという意味です。
さらに能一曲の中で、狂言役者がアイとして登場します。宿の主とか里の男などの役で、ちょっとした進行を担当したり、能のシテ(主役)が前半と後半で違う役に変わるので扮装を替えるために中入り(一度舞台から退場)する場合に、所の者(近隣の者)として登場して簡単な状況説明などを行い、着替えの時間稼ぎをするというものです。
このように、狂言役者には二つの役割があります。能と能の間におかれた狂言を演じる場合と、能の一部として能の中に登場する役割。
今回取り上げるのは、能と能の間に置かれている、演劇として独立した狂言です。
狂言の演技の基本は能の演技にあります。ですから狂言役者はまずきっちりと能の演技基礎を身につけます。構え・はこび(歩行)・所作・発声などです。その上で、笑いを誘う独特の面白みを表現できるように、狂言らしく変化させていきます。
現在大蔵流と和泉流の二流があり、同じ演目でもかなり違うストーリーだったり、スタンスが違ったりするので、比較してみるといっそう面白くなります。
狂言では固有名詞が与えられた登場人物もいないわけではありませんが、多くは「この辺りの者」であり、どこの誰かは示されていません。年齢も不明の場合が多いです。その意味では非常にシンプルな台本ですが、私はそれこそが最も大きな狂言の魅力だと考えています。
なぜなら、その時の演者の人間関係が、そのままその曲の登場人物達の人間関係に反映しており、演者によって内容ががらりと変わってしまうのです。例えば主人役が老齢の名人で、太郎冠者(使用人)は若い人であった場合、太郎冠者にとって主人は大きな存在で、頭が上がらないみたいになりがちですね。逆に主人が新人で、太郎冠者を名人級の老人が演じている場合、太郎冠者は主人の親の代からその家に居て、主人が赤ん坊の時にはお襁褓も替えたし、おんぶしたりあやしたり、面倒を見ていたにちがいありません。二人は親子では無いけれど、ただの主従という関係を越えた、非常に親密なあいだがらだということになります。
そんなことを想像しながら見ると、同じ曲でも全然違って見えるのです。 様々な場面や台詞も、どういう意味があるのか、千差万別に解釈が可能です。流儀によっても演者によっても、その日のやり方によっても、そして受け取り方次第で、いろいろな情報がひきだされていきます。
三宅晶子(横浜国立大学 名誉教授)