
結局あっという間にまた目が見えなくなってしまいました。
「白いどんみりとした目」と表現しています。
二人はこの事態を嘆き悲しみつつも、離縁ということはもう考えないようです。この時の心情を「これは夢かやあさましや……」と謡仕立てでしっとりと謡います。
最後の場面にきてかなり長い謡なので、これはちょっと辛抱しながら聞いている感じになりますね。絵ではまったく無視されています。
狂言では、感情の頂点の重要場面で、節を付けてまるで能の一説を謡っているように謡うことはしばしばあります。ここもその手法です。

妻に手を引かれながら仲良く家に帰っていきます。能や狂言では、手を握ったり、抱きついたりというような直接的な所作は行いません。ここでも、妻は夫の手首の辺りを、着物の上から掴んでいますが、手を引いているというつもりの所作です。
その時、最前嬉しさの余り捨ててしまった杖のことを思い出し、「此様な事を知ったれば、最前の杖をば捨てまいものを」と後悔します。
悲しい場面なのですが、クスッと笑えると、この夫婦は絆がいっそう深まって、これまで以上に仲むつましく暮らすのだろうなと、ちょっと救われます。
わわしい女
授業で用いた映像1)の妻はすごい美人なので、この人には敵わないだろうと思えます。
1) 野村万作,野村萬斎:狂言でござる DVDビデオ「野村万作狂言集」, 第4巻,角川書店,2001年.
それにしても、迷いのない一途な女ですね。完全に亭主を尻に引いている感じです。狂言ではこのような精神的に強くてしばしば力も強い、行動力抜群の、口やかましい女が登場します。「わわしい女」と呼ばれます。以前女性解放運動のキャッチフレーズとして使用されたこともあります。平安時代には見られなかった、庶民の活発な女性像です。
全く迷い無く、離縁はあり得ないと即答する妻の姿に、少し戸惑う人もいると思います。けれども、離縁されたらその後の生活はどう保証されるのか、男は新しい妻を貰えば、不自由ない暮らしが出来るので気楽なものですが、出て行くことになる女はそうは行きませんね。 まあそういう計算を働かせているとみる必要はなく、二人は互いへの愛情を再確認したのでしょう。そう感じることが出来ると、後味が悪くない鑑賞ができます。
地蔵信仰
それにしてもこの地蔵は一体どうなっているのだと憤慨する人もいます。まるで妻に嫉妬しているみたいにも見えます。夫も夢で見た地蔵の姿に、ぽーっとなってしまったみたいですね。地蔵はこのように人間くさい存在として、人々に親しまれていたのでしょう。