
登場人物
前シテ(前場の主役) 白蔵主(老狐が化けている)
後シテ(後場の主役) 老狐
アド(相手役) 男(猟師)
笛・小鼓・大鼓

集狂言に分類される狂言です。脇狂言(翁に続いて演じられる脇能の次に演じられる、祝言を旨とする狂言)・大名狂言・小名狂言・山伏狂言などのジャンルに分類できない、その他色々を総称します。これまで多く取り上げた、主人と太郎冠者というお馴染みのキャラクターは出て来ません。シテは老いた狐で、前場では白蔵主という僧に化けて登場し、後場では狐本来の姿となります。相手役は本当の白蔵主の甥の猟師です。この人は労働者階級なので、太郎冠者と同類の装束を身に着けています。
狐の本性が様々な形で表現される、面白い狂言です。
〈靱猿〉でもご紹介したように、狂言の修行は「猿に始まって狐で終わる」と言われており、小猿の役で初舞台を踏み習練を積んで、二十代で〈釣狐〉を披いて、一人前の狂言師と認められます。〈靱猿〉も〈釣狐〉も着ぐるみを着て動物に扮するという意味では共通していますが、着用するモンパ(着ぐるみ)の材質は随分違っています。柔らかく軽い猿の物と比べて、狐の毛皮に似せた毛足の長い布なので、重く動きにくいですし、贅肉のついていない身軽な子供時代と違って、大人の肉体で軽々と動物の物まねをするのは、かなりな重労働です。

「披き物」と呼ばれるのは、能の〈道成寺〉など、能・狂言の世界で長年秘曲化され、習物として大切にされてきた曲です。数々の決まった型や演じ方があり、それをきっちり習って体得することを求められます。芸の習得が一定の水準に達すると家元から許しが出て、勤めることができます。
狂言には能仕立てになっている曲がいくつかありますが、〈釣狐〉もその一つです。前後場に分かれており、笛・小鼓・大鼓編成の囃子方が舞台中央奥に座を占め、前シテは登場楽が演奏される中を登場し、謡を謡います。前シテは一度中入り(橋掛りを渡って揚げ幕の中へ退場する)し、扮装を変えて後シテとして再登場します。
この時の囃子方は、能の時と同じようには演奏しない決まりがあります。能ではないので力一杯はやらないということらしく、大小鼓は大きな音は出しませんし、笛も朗々とは吹きません。それを形に示すためでしょうか、能では大小鼓は床几にかけて演奏しますが、狂言では座って向き合ったままでの演奏になります。

半年間の授業の中で、終盤に取り上げます。大曲〈釣狐〉は秘曲中の秘曲という扱いで、数々の難しい型があります。いきなり映像を見ても、そのあたりが上手く把握できない懸念があります。授業では野村万作師の〈釣狐〉を使用1)したのですが、原則は生涯に一度きり勤める〈釣狐〉を、20回も繰り返し演じてきて、最後のつもりで挑んだ時の取組みを伝えるNHKスペシャル「最後の〈狐〉に挑む」2)が手元にあるので、まずそれを見ることから始めました。狂言師の日常的な稽古や、曲の解釈、新演出の工夫、新しく誂えた狐の面の製作風景など、通常うかがい知ることができない映像満載で、それまであまり積極的でなかったような学生でも、ついつい惹き込まれて見てしまい、是非〈釣狐〉本編を見たいという気持ちが涌いてくるようです。
1)シテ野村万作,アド三宅右近,NHKにて1993年11月放送(所収:野村万作「釣狐」,NHKエンタープライズ21,1995年.)
2)NHKスペシャル「野村万作 最後の〈狐〉に挑む」,1993年11月3日.
あらすじ
一族を悉く釣り取られてしまった古老の狐は、狐釣りを止めさせるために、猟師の伯父・白蔵主に化けて、猟師の元を訪れる。道中で上手く化けられたか水に姿を映したり、犬の遠吠えに驚くなどするうちに、猟師の家に到着する。初めはとぼけて言い逃れようとする猟師に狐釣りを白状させ、殺生石の物語を語って狐の執心の恐ろしさを力説し、罠を捨てさせる。
喜び安心して帰路につくのだったが、道の真ん中に捨てたはずの罠が置かれているのを見て、冷静さを失う。餌の若鼠の油揚げの誘惑に負けそうになりながらも、ようよう思いとどまり、着物を脱ぎ捨て身軽になって戻ろうと思い直して帰って行く。
罠が荒らされているのを見て猟師は、やはり伯父ではなく狐だったのだと確信して、新たに罠を仕掛けて待ち受ける。
狐本来の姿となって、罠めがけて襲いかかろうとするが、危険を察知して止まろうとする理性と、餌の誘惑に負けそうになる野生がせめぎ合う。しばらく葛藤するうちに、とうとう餌をとろうとして罠に掛かってしまう。猟師はここぞとばかり罠を操作して絡め取ろうとするが、狐は上手く罠を外して逃げていく。
欲望を描く狂言
ドキュメンタリーの中でも、万作師がはっきり言われているのが、これは人間の欲望を描いているのだということです。狐を演じつつ、でもそこで表現されているのは、人間本来のあり方なのだということで、餌を前に葛藤する様子が、くどいと感じるほどに前後場両方で延々と演じられています。狐に人間をダブルイメージさせて鑑賞すると、その長い迷いの演技がなるほどと納得でき、またその姿に自分を重ねて、思わず笑ってしまうことになります。
ところが大蔵流山本東次郎家の〈釣狐〉は、狐本来の野生の姿をできるだけリアルに写し取ろうという意図がはっきり現れており、全然違う〈釣狐〉となっています。
時代によっても、流儀によっても、演じる人によっても、様々な〈釣狐〉ができそうな、器の大きな曲です。
岩田さんは、個性的な動きや表情を的確に捉えて、舞台上の動きを生き生きと伝えてくれています。
授業では時間の関係上、万作師のものを一種類上映しただけなのですが、大蔵流の絵も描いてもらいたい気がしました。