[釣狐(和泉流)第5回]帰り道

釣狐(つりぎつね)和泉流

まんまと釣りを思いとどまらせたと思ったはくぞうは、ウキウキ気分で帰途につきます。うた(民間で流行していた短い歌謡)を口ずさむくらいに上機嫌です。

この里に住めばこそ、浮き名もたてのいのうやれ、わが古塚へしやならしやならと……

(この人里に住んでいればこそ、浮き名も立つだろう。さあ我が古塚へ帰ろう、しゃなりしゃなりと)

「しゃならしゃなら」は身をくねらせてしとやかに歩く様で、実際そのような動きをしながら、嬉しそうに歩いて行きます。

ところが、罠を見付けてしまいました。

先ほど猟師は遠くへ捨てたのだろうと思ったのですが、なんと帰り道の真ん中に捨て置かれていたのです。

今までの幸せな気分は一気に吹き飛び、猟師への不信感でいっぱいになります。

このあたりの白蔵主の気分の変化が、絵では面白く表現されていますね。

そういえば罠というものを見たことがないと思った白蔵主は、じっくり観察しようと罠に近付き、罠を(いじ)りながら、怒りの気持ちがこみ上げてきます。一族すべてを奪った憎い敵なのです。

そして(おとり)として付けられている餌に気付きます。それは若い鼠の油揚げで、狐の大好物です。若い狐たちが大勢罠に掛かったのも道理だと納得しつつ、自分も食べたい欲望が沸き起こります。

ここからは、餌を食べたいという欲望と、やめるべきだという理性のせめぎ合いが、じっくり演じられていきます。

餌をつついたり、つついた棒の臭いを嗅いだり、もう食べるのかと思わせる動作の後、やっとの思いでそれを押し止め、古塚へ帰ろうと後ろ髪を引かれるような様子で橋掛りの方へ行きます。でもやっぱり餌が気になって、敵討ちなのだからひと思いに食べてやろうと大急ぎで戻って来るのですが、やはり危ないという理性が働いて、もう一度橋掛りへ引き返します。この二度の舞台と橋掛りの往復によって表現されるのは、押さえがたいほどの衝動的な食べたい欲と、それを押し止める理性のせめぎ合いの姿で、それはまさに人間そのもの。まるで自分の姿を見ているような場面です。

あまりに赤裸々な表現に、笑いが起きてしまうという不思議さがあります。

とうとう餌を食べる決断ができなかった白蔵主は、「青みどろを身にまとっているので身が重くてどうも食うことができない。これを脱いで戻ってこよう」と決意し、大急ぎで古塚に帰っていきます。

白蔵主に化けているという意識をかなぐり捨て、最後は膝まで白蔵主の衣を引き上げ、狐に返っているような様相ですっ飛んでいきます。

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三宅 晶子

横浜国立大学名誉教授。中世日本文学(特に能楽)、古典教育を専門とする。『歌舞能の系譜――世阿弥から禅竹へ』(ぺりかん社、2019年)ほか、能楽・古典教育に関する著書多数。

岩田 千治

奈良大学文学部国文学科。高校・大学で美術部に所属し、第29回奈良県高校生アートグランプリでは、平面の部 特別賞を受賞した。奈良大学の講義ではじめて狂言に接し、その感動をイラストで表現している。

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